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marginalnotes

学んだこと思い立ったことを勢いだけで書く

みんな自分の「気に入らない」を「マナー」と言い換えすぎ

business.nikkeibp.co.jp

上のコラムで小田嶋隆氏も取り上げているとおり、電車内で化粧をする女性を「みっともない」とする広告が一部で批判を浴びているようだ。

個人的には電車内で化粧しようが飯を食おうが俺に直接迷惑がかからなければ別に構わない。身動きが取れない満員電車のまっ隣で、下手すればこちらの服を汚されたりするようなシチュエーションで化粧でもされればアホかこいつとは思うが、空いてる車内でやっている分には別に迷惑でもないし、気に入らないなら見なきゃいいだけだし。

はっきり言って電車で化粧する女性よりも、デカい声で話し続けるおっさんの集団とかの方が個人的にはよっぽど迷惑に感じるし、感じ方は人それぞれだ。ところが日本ではこういう個人の「気に入らない」をそれが世間のマナーだみたいな形にして他人に押しつけようとする傾向があるように感じる。

本来、電車内の化粧など別にマナーと言うほど大げさなものではない。最終的には本人の矜持というか気持ちの問題で、人前で化粧するのを恥ずかしいと思うならしなければいいし、気にしないならどこででもやればいい。一方でそれを見てみっともない、そういう女は嫌だと思うのも、別にいいんじゃないのと思うのも人それぞれで、単にそれだけの話。それをマナーがどうこうなんていう話にすげ替えて広告にまでするというのはどうかしているとしか思えない。上のコラムで小田嶋氏はこれをアリバイCMと言っているけれど。

ザ、コラム

ザ、コラム

似ている記事

marginalnotes.hateblo.jp

広告が好かれる時代など来ないしネイティブ広告も同じ

d-marketing.yahoo.co.jp

ここでお話をされている方々は実際に広告を作る側の方々だから仕方ないのかもしれないけれど、なぜ広告が嫌われるのかを根本的に理解していないし、よい広告であればユーザーは受け入れてくれると思っている節があるがそんなことはない。

なぜ「広告が嫌われるのかを根本的に理解していない」と断言するかと言えば、例えば下記の発言。

この「記事と広告の見分けがつかない」ことについて、悪くとる人からすると、「人々をだまそうとしている広告」と思われるかもしれませんが、ネイティブ広告は他のこれまでの広告フォーマットと比べると「邪魔にならない」、「チカチカしない」広告です。つまり、「だまそうとしている」というよりもむしろ、「嫌がられない」ための広告フォーマットとして生まれてきています。

嫌がられない広告? なぜ人が広告を邪魔と感じるかと言えば、それは広告の内容など関係なく、「ユーザーが目的を持って行動しているから」に他ならない。ある目的を持って行動している -要するに特定の情報に向かって最短距離でたどり着き、それだけを取得してさっさと目的を果たしたい- ユーザーにとってはそれがどんな形態・内容の広告であろうと、主目的を邪魔する存在でしかない。

主コンテンツを邪魔せず、隅っこに広告バナーが表示されていればそれが多少チカチカしていようがまだ気にならないかもしれないが、主コンテンツの前に広告を挟み込んできたり、ネイティブ広告のように目的の情報だと思ってアクセスしたら違ったなどという無駄な時間を使わされるものが邪魔じゃなくてなんなのか。

という前提を理解すれば、嫌がられずに広告を見てもらうには、ユーザーが目的を持って行動していない、受け身の状態のときにさらっと流すか -ながら見しているときに流れるテレビCMはこれに近いかもしれない-、そうでなければ、例えば暇つぶしが欲しいなと思っている人に、その人が暇をつぶせる内容の広告を提供するなど、広告を見ること自体が目的になるようにしなければいけない。極端な話だが、広告を見て金をもらえるなら喜んで広告を見る人も多いだろう。そんなことをして意味があるとは思わないけれど。

繰り返すがネイティブ広告とやらが嫌われるのは、何かの商品について調べようと思ってアクセスしたら、そのページが金をもらって書かれた提灯記事だったという、本来の目的遂行 -信頼できそうな評価や実際の利用者の声が知りたいという欲求- を邪魔するからで、どんなに記事が面白かろうが関係ない。金をもらって中立でない内容になっている記事は有益な情報にはならない。邪魔なものは邪魔ということになる。

業界のガイドラインとやらに従って「広告」とでっかく書いてあれば最初から読まくて済むのでユーザーにとっては多少ありがたいが、だとしても邪魔なことには変わりない。

「広告」を考えるとき、広告主側の視点でしか物事を考えていないケースがほとんどだ。金を出すのは広告主なのだからそれはある意味当たり前で、それが悪いとは言わないのだけれど、広告を出す側が、広告を出す側だけの理論で「よい広告とは」などという話をしてもあまり意味のあるものには感じられない。

という記事を下書きにしたまま忘れていて長らく放置されていたのを今さら公開した。

自粛の是非などどうでもよい

bylines.news.yahoo.co.jp

自粛することの是非などどうでもよい。自粛したい人はすればいいし、したくない、意味がないと思う人はしなければよい。

問題なのは自分の意見を他人に押しつけ、それによって他人の行動をコントロールしようとする人間であって、それは震災時における自粛云々だけの問題ではない。

被災地を想って自粛したいというのなら自分だけ家に引きこもって静かにしていればよいだけだし、自粛したくないのなら普段通り生活すればよい。寄付なりで多少被災地の力になれる人は個人の財力や能力の許す範囲ですればよいし、それをしなかったからといって非難されることでもない。

「何でお前は自粛しないのだ」と言われる筋合いはないし、一方で「自粛するなんてよくない、みんな自粛するな」などとも言われたくない。個人の好きにしろ、ただしそれを他人に強要するな。ただそれだけの話なのに何を小難しい論争にしているのか。

犯人捜しが好きなリーダーはチームから排除しないといけない

当たり前の話だけれど人間が働く以上誰にでもミスはあり得るし、ミスが起こった際にはその原因を認識して同じミスが繰り返されないような仕組み作りに注力しければならない。

そのためにはミスした人を責めるのではなく、なぜそのミスが起こったのかという原因にフォーカスする必要がある。その際にとても重要なのは、ミスをした人の熟練度や能力、注意力といった属人的な部分は無視して、誰が当事者だったとしても起こりえるミスだという前提にたって原因を探ることだ。つまり人が悪いのではなく作業環境や手順など、仕組みに問題があるのでは? という前提で議論を進める必要がある。

しかし世の中にはミスが起こった際に犯人を見つけ出すことと、その犯人と決めた人間を厳しく叱責することがリーダーの役割だと勘違いしている人間が存在する。このようなリーダーの元では問題が解決しないばかりか、同じミスが繰り返され、さらにそのミスが隠蔽される方向に進む可能性が高い。まずはこういったリーダーを排除することがチームを機能させるためには必要になることが多い。

他人の人生には不干渉でいたい

俺はファッションについて詳しいわけでもないし、自分のことをお洒落だと思ったことは一切ないが、それでも買う服のブランドは自分で気に入ったところだけに決めているし、名前を出して大変申し訳ないが全身ユニクロで街に出たいとは思わない。デザイン的に好みでないというのももちろんあるし、自分がイケていないと思っている服を着て人前に出るのが許せないというのは大げさに言えば矜持の問題だが、同時にあくまで自分の中だけでの問題でもある。

だから逆に言えばユニクロ自体を何ら馬鹿にする気はないし、それが好きな人が全身ユニクロだったからといってなんとも思わない。当たり前だがもうちょっとよい服を着ろなんて余計なことを言うつもりもない。まぁユニクロに限らずTPOにそぐわない服装の場合はさすがにその人のためにも何か言うかもしれないがそれはまた別の話だろう。

人それぞれ価値観があって、服に金を使う人もいれば使わない人もいる。質素な暮らしが好きな人もいれば、稼いだ金はすべて趣味に突っ込んだり、友人と遊び回るのが好きな人もいる。他人が稼いだ金をどこにどういう風に使うかなど俺の知ったことではないし、俺が自分で稼いだ金をどう使おうが他人から口を出される筋合いもない。

にもかかわらず世の中には他人のお金の使い方が気に入らない人間がいるようだ。服に金を使うのは見栄っぱりだとか、高い時計を買って何の意味があるのかとか、自分がそこに興味がないからといって、なぜそんなところに金をかけるのか意味がわからない、そんなところに金を使う人間は中身が空っぽなのだと馬鹿にしたようなことを言う。

どこかの国の元大統領とやらが日本にやってきて行きすぎた消費社会に警笛を鳴らせば、まるでよい生活を求めるのが悪のような極端なことまで言い出す輩もでてくる。件の元大統領の話は一通り聞いたが、彼自身は質素こそ善といったような偏った話はしていないし、自分の価値観を他人に押しつけようという意図もないようなのであくまで受け取る側の問題なのだが。

もちろん彼の生き方や考え方には共感できる点もある。だが、かといって俺が同じ生き方をしたいと思うかといえば全く思わない。一方でそれに共感して彼と同じように生きたいと望むのであれば淡々とその目標に向かって一人で行動すればよいだけのことだ。

人は根本的にわかり合えない。自分と異なる価値観を持った人間を理解することは恐らく無理であると同時に無理に理解する必要もない。理解する努力がしたくないのであれば、自分には理解できないということだけ理解して口をつぐんでいればよいのに黙っていられないのだろうか。もっと他人の人生に対して不干渉になってもらいたいものだし、自分もそう心がけたい。

加点方式で生きる

例えばどこかのレストランに食事に行ったでもなんでもよいが、同じ体験をしたとしても、自分が事前に思っていた期待値などから目についたマイナスな部分を減点していってその経験を評価する人と、期待値などに関係なくよかった点だけを加点して評価する人がいる。

前者の人(減点方式の人と呼ぶ)は「あのお店、美味しかったし、雰囲気もよかったけれど店員さんの態度がちょっと・・・・・・」みたいなことを言いがちなのに比べて、後者の人(加点方式の人と呼ぶ)はあまりそういう点には言及せず、いくつよいと思える点があったかに注目してその物事を捉える傾向があるようだ。

もちろん、人それぞれの性格なのでどちらが良い、悪い、あるいは優れているなどと言うつもりはないし、完全に人の考え方がこの2つに分けられるわけでもない。同じ人でも物事や状況によって減点方式で評価したり、加点方式で評価する場合もあるだろう。

ただ、個人的にはなるべく加点方式で物事を考えて生きていきたいと思っている。極力、悪いことや嫌な経験にフォーカスして鬱鬱とする時間を過ごしたくないので、例えばあまり計画通りにいかなかった旅行などでも、その中でよかった点、楽しかった点だけを覚えておいて、悪かった点はさっさと忘れるように意識してもって行く。そうする方がストレスがないし、よい思い出だけが残る。

大人になってから気がついたが、俺は(程度によるが)減点方式でしか物事を見ない人は一緒にいて疲れてしまうみたいだ。だからせめて自分はそうならないようにしようと意識的に加点方式で考えるようにしていることも多少はあると思うが、元々子供の頃から比較的意識しなくてもそういう考え方だったと思う。この辺は何か親の育て方などに関係があるのだろうか。

世代によって検索行動が変わっていくのは面白い

www.difa.me

ハイロック:実際Instagramで何かを探す時って、どうやって検索してるの? 僕なんかは基本、Googleで画像検索しちゃうんですよ。MacBookでもiPhoneでもスタートページはGoogle。
小嶋 陽菜:そうなんだ。うーん、Googleで検索して出てくるモノって、もう既に世の中にあるモノ、みんなが知ってるモノしか出てこないって感覚なんですよね。私は、新しいモノとかみんながまだ知らないものを見つけたいし発信したいから、Instagramアプリの「発見」てとこに流れてきて可愛いと思った投稿のハッシュタグをたどってみたり、そこで「おすすめ」に出てきたアカウントを開いてみたり……。何か探そうって目的があって検索するよりも、出会っていくっていう感じかなぁ。

少し前にInstagramの有名人という人がGoogleは使わないという発言をしていて、それとも共通すると思う。

jp.techcrunch.com

こうやって世代や時代によって検索行動が変わっていくのは個人的には面白いと感じる。

俺らの世代も上の世代からは「最近の若い連中はなんでもインターネットで調べる」と言われたり、図書館で調べろなんて言う人もいた。「ググって出てきたものが真実だと思うな」的な話は当たり前として、情報の検索に何を使うかなど実は大した問題ではなく、自分の探したいものを効率よく探すのにマッチしているかと、あとは出てきた情報をどう自分なりにフィルタリングして活用するかと言うだけの話だ。

Instagramの方がGoogleを使うよりも自分が欲しい情報が見つかりやすい、と言うならInstagramを使うのが合理的だし、Googleより図書館の方がよいと思うのならそうすればよい。そもそもGoogleを使いこなすことが検索行動のすべてではないのだから。

ただ、Googleは「リアルじゃない」が、InstagramやTwitterは「すごくリアル」などという発言を聞いていると、そう信じるのは個人の勝手だけれど、騙されるから注意した方がよいのでは? 程度には思うが。

アンビエント・ファインダビリティ ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅

アンビエント・ファインダビリティ ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅

無駄な行動をとる人たち

保育園の抽選に落ちて「日本死ね」と書いた人がいたそうだけれど(それ自体は個人の不満の吐露であって好きにやればよいと思う)、それに共感し都心部における保育園の整備や、同じく問題になっている保育士の待遇改善を進めるべきだと考えるならその目的に向かって最短ルートは何かを考え、前向きな議論をすることに時間と労力を投入すればよいと思うが、その言葉尻に乗って例えば現政権を罵倒したりと他人を攻撃する口実のように使う人が必ずでてくる。

また、とある有名人の学歴・経歴詐称が最近話題になったが、テレビ局やラジオ局も起用するコメンテーターの経歴くらいは少し慎重に調べた方がよいのではないか程度の話が、なぜか学歴偏重の世の中は間違っているだの、問題点をすり替えたり、やたら主語を大きくして騒ぎ出す人が必ず出てくる。

marginalnotes.hateblo.jp

はっきり言ってこの手の人間は問題の本質が理解できていないか、あるいはわかっていてわざと自分たちの目的のために利用しているかなので、どちらにせよ本来の問題解決に寄与しない無駄な行動ばかりするし、その問題を本当に早期解決したいと願う人たちにすれば、まさに「無能な味方は敵より厄介」を地で行く状態であって迷惑以外の何者でもないと思うが、それが世の中だということで諦めるしかないのだろう。

こういう人間が騒ぐことで世間の注目が集まることもあるので悪いことばかりではないという意見もあると思うが、例えば冒頭で書いた保育園の件について実際にテレビなどで取り上げられたとしても、国会で他人の書いた記事を引き合いに、首相にしたり顔で無意味な攻撃をする野党議員の姿が映る程度で、問題の本質や課題、今必要な議論などには一切触れないし(もちろんきちんと触れている番組もあるかもしれないが)、一過性のネタとして消費されていくだけで、実際の問題解決にプラスの影響を与えているのかについては疑問に思うことが多い。むしろ以前から問題に真摯に取り組んでいた人たちにすれば、余計な騒ぎになってマイナスなのではないかとすら思う。

何を発言しないか

人間、「何を発言するか」に注目が行きがちだけれど、頭で思ってもそれを言葉に出さないという判断、つまり「何を発言しないか」を判断する能力の方が重要なことが多い。それは空気を読むというのとは少し違って、自分が考え、発言しようとしている内容について、常に自分自身が厳しい目で検証する癖が付いているかに関係すると思う。これが出来ている人はとっさの時でも余計な発言はしない。

とはいえあまりに発言に慎重になりすぎて、言うべき時に適切な発言が出来なければ意味はないのだけれど、そのためにも自分の考え方を常に頭の中で整理し、その中から表に出すべき発言なのか、それともそっと胸にしまっておいた方がよい発言なのかをより分けておくという準備作業は普段からやっておくのがよい。

自分はサービス精神 -といってもそれ程旺盛ではないけれど- から余計なことを発言してしまう時が希にあって、その都度反省しているが、自分にはそれが出来ていないということなのだろう。

marginalnotes.hateblo.jp

ハロー効果

心理学で「ハロー効果」というのがある。WikiPedia の解説だと下記のような感じ。

ハロー効果とは、心理学者エドワード・ソーンダイクによって名づけられた造語で、心理的効果の一つ。ある対象を評価をする時に顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる現象のこと。認知バイアスの一種である。 一般にポジティブな方向への歪みを指すことが多いが、ネガティブな方向へのハロー効果も存在する。ハローとは、「後光が差す」と言う時の後光、聖像の光背や光輪のことで、後光効果、光背効果とも呼ばれる。

ポジティブな方は要するにイケメンとか美人といった見た目がよい人、あるいは高学歴な人などについて、その要素 -例えば見た目がよいこと- 以外の部分まで優れていると思ってしまうこと。例えば本来、イケメンであることと仕事ができることは相関しないはずなのに、仕事が出来るように見えてしまうとか、そういうこと。

我々も無意識にだが、どんくさそうな見た目のおじさんと、ビシッと高級スーツでキメたイケメンが同じことを発言すれば、後者の方を信用したりしてしまうことは多い。例えば詐欺師はその辺をわかっているので見た目が汚い詐欺師というのはあまりいないのだけれど。

何でこんなことを急に書いたのかと言えばテレビなどでたまにお見かけしていたショーン・マクアードル川上(ショーンK)氏の学歴詐称だか経歴詐称だかが話題になっていたので。

彼の学歴や経歴が嘘かどうかについては特に興味がないので置いておくとして、あのようなハーフっぽい見た目(ハーフではないらしいが)のイケメン、美声 -テレビで何度か拝見した限りとてもよい声をしている- の経営コンサルタント(自称らしいが)がもっともらしいことをしゃべると、しゃべっている内容そのものよりも、その雰囲気から、「この人はとても有意義なことを言う人だ」「頭のよい人だ」という印象を持つ人が多いということだろう。彼が本当は頭がよくないという意味ではなく、その実態以上にという意味で。

どういう経緯でわざわざ嘘の経歴を公表しておかなければならなくなったのかはわからないけれど、日本人(だけではないかもしれないが)はどちらかというと肩書きでその人を判断する傾向があるので、まず使ってもらうためには立派な経歴が必要だったのかもしれない。もちろんだからといって詐称してよいわけはない。

そのうち人気が出て、徐々にメディアでの露出が増え、多くの人の目に付くようになれば、当然こういうことがバレる日がいつかくることはわかったはずだけれど、バレないと高をくくっていたのか、それとも悪い事だと思っていなかったのか。

ところで氏はいくつか著書を出されているようだ。「MBA講義生中継」なんてタイトルが付いた書籍もあるが大丈夫なんだろうか。

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